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米粉パン(基本)

ちょっとやばい事実が判明した。
実は先日、うちの電子レンジがもう結構古い、というか古すぎるのではないかという話になり、
急遽新しいレンジを購入した。

東芝の石窯ドーム(3000)。
最近パン作りにハマっている私を見て、夫がパン作りを趣味としている友人におすすめのオーブンレンジを問い合わせてくれて、
それで教えてもらったもの。
ちなみに夫の友人の手作りパンを見せてもらったが、正直「え、店出してる?」と聞いてしまうレベルのすごいパン。もはやパン職人。

石窯ドームを決済している際の私の頭の中は
「これで彼みたいなすげぇパンを、自宅で……!」
という思いと
「これ絶対身の丈に合ってない買い物だよな……」
という思いでスプラトゥーンされてた。
正直かなり拮抗してて私みたいなローラー使いは隙間を必死に塗ることしかできなかった。
チーム「貯金しろよ」勢がシューターでバシュンバシュン打ち込んでくるから何回も立ち上がらないといけなかった。

そんなこんなで買った、ここ一番身の丈に合ってない買い物、石窯ドーム。

しかしそんなヤベェ買い物で発覚した事実もまた、そのヤバさを超えてきてるから恐ろしい。
百聞は一見に如かず。
ご覧ください。


これ、米粉パン。
そして……


これも米粉パン。

違いすぎじゃない?

言うまでもなく上が石窯ドームで焼いたやつ、
下が前までの電子レンジで焼いたやつ。
私の腕が上がったとかそういう話じゃない。
もう私の腕を超越した何か(火力とか熱とかそういうやつ)が働いているとしか思えない。

弘法筆を選ばず、とはいうけど、さすがに弘法も20年くらい前の箒用の毛で作った筆じゃ書けないよねという話。

お弁当とかお惣菜の温めをメイン用途とし、それにオーブンついてたらいいよね、トースターついてたら嬉しいよねレベルの電子レンジと、
オーブンをメイン用途とした、自動調理器買うんやったらウチも検討してみる?みたいなオーブンレンジじゃそもそも全然違うんだなと。

どっちが良いとか悪いとかじゃない。
主戦場が違うって話。



もはや「パン作りました」とか言ってたあの頃が恥ずかしくて仕方ないんだけど、
それも私の歴史と思って噛み締めよう。あぁ恥ずかしい。

外はカリっと、中はふわもち。
めっちゃうまい米粉パン。



本当はここまでくるのに「グルテンとの出会い」もあった訳だけど、
それについてはいずれまた。
着実にパン沼にハマっていってる今日この頃。

追伸
コメント欄を開放しました。
パン作りについてコメントいただける方はぜひ。
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米粉バナナパウンド

昨日の朝食に出した米粉のバナナパウンド。
パウンドケーキの型がなかったのでクッキングシートを箱型に形成してやってみたけど
焼いてる過程で広がって円形に。
そりゃそうじゃ。
でも結局いい感じに六角形みたいになったので結果オーライかな。

前に作った時は、レシピにある砂糖の分量が「尋常じゃねぇな」「ダイエットどころか健康を害するのでは?」と思ったので自分で勝手に少なくしたんだけど、
今回はレシピに従って作ってみた。
やはり、美味い。

物事にはちゃんと理由がある、ということを、お菓子作りは教えてくれるのさ。

初めての米粉パン

ここ最近、毎日パンケーキやらスコーンやらを焼いてきたんだけど、
ついにパンに挑戦。
実は里帰り中に実家でちぎりパンを作ったんだけど、どうも味が合わなかったのもあり、
今度は米粉で挑戦。



あれ?パンってこんなにトゲトゲしてる?
やっぱ捏ねた後丸める段階で、「なんか手につくな〜」と思ってたんだけど
そこでちゃんと粉を足すなり何なりすべきだったのかしら。

あとツヤ出しのためになんか塗るらしいけど塗ってないし。
こういうズボラがパン作りには一番良くないよね。

目標はふわっふわのパンなんだけど、米粉ではやはりモチモチになるのかな。
焼き立てより、少し時間経ってからの方が美味しかった。
あとジャムより蜂蜜みたいなのかけたほうが好みでした。

パプリカという時間差攻撃

切なさに方程式があるとしたら、米津玄師はきっとそれを知っている。
彼の曲からはいつも強烈な切なさを感じるけど、『パプリカ』のそれは鋭さが違う。



米津自身が歌っているバージョンもいいけど、個人的にはFoorinの方が好き。






この曲2018年リリースだからもう7年も前の曲。


確か甥が歌ったり踊ったりしているのを見て、「もう流行の曲とか歌えんの、早」と思った記憶がある。


よその子とゴーヤは育つのが早い。甥も然り。



当時の私にこの曲はその程度の認識で、正直そんなに刺さってなかった。


それが今はどうしたことだろう。



あの時と今の私の大きな違いを挙げるとすれば、「子どもがいるかいないか」という点になる。
当時は子どものことなんて考えてもいなかったし、この7年の間に「子どもがほしい」と思うようになり、
その願いがようやく最近叶った。そんな私の背景があるとはいえ――
それにしたって効きすぎじゃないか。やってくれるぜ、米津玄師。



今更「パプリカっていい曲だよね」とか大っぴらにブログに書くのは恥ずかしい。
でも一方で、米津自身が「将来Foorinのみんなが「夜中に一人で部屋の中で泣くような日もくるだろう、でも、そうなった時に、10年前、15年前に『パプリカ』という曲があって、Foorinというプロジェクトがあって、ああいうことをやってたなって思い返して、それが何らかの祝福になってほしい」って言ってる。


つまり、私自身が、リスナー自身が、それぞれのタイミングでFoorinの将来の姿になり得るとしたら――
そうなった時に『パプリカ』は祝福になるわけで。



私のタイミングは「今」だった。
『パプリカ』が「今」効いた。ただ、それだけのこと。



『パプリカ』という曲は、時間軸にも人軸にも広く届く、普遍性のある楽曲なんだと思う。
誰もがFoorinになりうる、この曲で。



それから、この曲は視座が独特なのではないかとも思った。



『パプリカ』を聴いているとき、私が見ていたのは、我が子の目を通した世界だった気がする。
私自身の視点でも、我が子の視点でもなく、私が我が子を通して見た世界。



いつか我が子が「あなたに会いたい」と思う日が来るのだろうか。
一番星を見つけて「明日も晴れるかな」と思う日があるのだろうか。
我が子を呼んでくれるのは、誰なんだろう。



そんなふうに想いを馳せながら、ぼんやりと、名探偵コナンの犯人みたいに影しかない「あなた」や「誰か」を、
我が子の目を通して想像していた。
我ながら回りくどい味わい方してんな。



歌詞の中で一番好きなのは、「喜びを数えたら あなたでいっぱい」というところ。
私にとっての「あなた」を思い浮かべつつ、我が子にも「あなた」がいてくれるといいなと思う。



米津自身、「子どもに応援ソングを歌わせること」に対して疑問を持ち、
「子どもが歌うというのはイビツ」と感じたことも語っている。
その感覚が、この曲の視座を特別なものにしたのかもしれない。素人考えだけど。



「がんばれ」なんて直接的な応援はされていない。
けれど『パプリカ』で描かれる物語は、確かに私の心を震わせて、
「受け継いでいくものを守らなければ」と思わせてくれる。
私が我が子を通してこの曲に涙したように、我が子もいつか、誰かを通してこの曲に涙する日が来てもいい。



そういう意味で、これは応援ソングだ。
具体的ではなく、抽象的。だからこそ普遍的な曲。



7年前の私には、『パプリカ』は平面的だった。他人事だった。
けれど子どもが生まれたことで、自分事になり、立体的になり、応援ソングになった。



もちろん、子どもがいるかいないかでこの曲の価値が変わるわけではない。
すべての人が、たった一人で生まれて生きているわけではない以上、
この曲の持つ特別な視座は、誰しもがどこかで得られるはずだから。



『パプリカ』を聴いて泣いてたら、気づいたら何にもできてない夕方になってたわけだけど。


何かを生み出したわけでも、何かに貢献したわけでもない1日だったけど。


そんな日を生きる私にも祝福をくれるなんて、音楽は優しいね。