パプリカという時間差攻撃
切なさに方程式があるとしたら、米津玄師はきっとそれを知っている。
彼の曲からはいつも強烈な切なさを感じるけど、『パプリカ』のそれは鋭さが違う。
米津自身が歌っているバージョンもいいけど、個人的にはFoorinの方が好き。
この曲2018年リリースだからもう7年も前の曲。
確か甥が歌ったり踊ったりしているのを見て、「もう流行の曲とか歌えんの、早」と思った記憶がある。
よその子とゴーヤは育つのが早い。甥も然り。
当時の私にこの曲はその程度の認識で、正直そんなに刺さってなかった。
それが今はどうしたことだろう。
あの時と今の私の大きな違いを挙げるとすれば、「子どもがいるかいないか」という点になる。
当時は子どものことなんて考えてもいなかったし、この7年の間に「子どもがほしい」と思うようになり、
その願いがようやく最近叶った。そんな私の背景があるとはいえ――
それにしたって効きすぎじゃないか。やってくれるぜ、米津玄師。
今更「パプリカっていい曲だよね」とか大っぴらにブログに書くのは恥ずかしい。
でも一方で、米津自身が「将来Foorinのみんなが「夜中に一人で部屋の中で泣くような日もくるだろう、でも、そうなった時に、10年前、15年前に『パプリカ』という曲があって、Foorinというプロジェクトがあって、ああいうことをやってたなって思い返して、それが何らかの祝福になってほしい」って言ってる。
つまり、私自身が、リスナー自身が、それぞれのタイミングでFoorinの将来の姿になり得るとしたら――
そうなった時に『パプリカ』は祝福になるわけで。
私のタイミングは「今」だった。
『パプリカ』が「今」効いた。ただ、それだけのこと。
『パプリカ』という曲は、時間軸にも人軸にも広く届く、普遍性のある楽曲なんだと思う。
誰もがFoorinになりうる、この曲で。
それから、この曲は視座が独特なのではないかとも思った。
『パプリカ』を聴いているとき、私が見ていたのは、我が子の目を通した世界だった気がする。
私自身の視点でも、我が子の視点でもなく、私が我が子を通して見た世界。
いつか我が子が「あなたに会いたい」と思う日が来るのだろうか。
一番星を見つけて「明日も晴れるかな」と思う日があるのだろうか。
我が子を呼んでくれるのは、誰なんだろう。
そんなふうに想いを馳せながら、ぼんやりと、名探偵コナンの犯人みたいに影しかない「あなた」や「誰か」を、
我が子の目を通して想像していた。
我ながら回りくどい味わい方してんな。
歌詞の中で一番好きなのは、「喜びを数えたら あなたでいっぱい」というところ。
私にとっての「あなた」を思い浮かべつつ、我が子にも「あなた」がいてくれるといいなと思う。
米津自身、「子どもに応援ソングを歌わせること」に対して疑問を持ち、
「子どもが歌うというのはイビツ」と感じたことも語っている。
その感覚が、この曲の視座を特別なものにしたのかもしれない。素人考えだけど。
「がんばれ」なんて直接的な応援はされていない。
けれど『パプリカ』で描かれる物語は、確かに私の心を震わせて、
「受け継いでいくものを守らなければ」と思わせてくれる。
私が我が子を通してこの曲に涙したように、我が子もいつか、誰かを通してこの曲に涙する日が来てもいい。
そういう意味で、これは応援ソングだ。
具体的ではなく、抽象的。だからこそ普遍的な曲。
7年前の私には、『パプリカ』は平面的だった。他人事だった。
けれど子どもが生まれたことで、自分事になり、立体的になり、応援ソングになった。
もちろん、子どもがいるかいないかでこの曲の価値が変わるわけではない。
すべての人が、たった一人で生まれて生きているわけではない以上、
この曲の持つ特別な視座は、誰しもがどこかで得られるはずだから。
『パプリカ』を聴いて泣いてたら、気づいたら何にもできてない夕方になってたわけだけど。
何かを生み出したわけでも、何かに貢献したわけでもない1日だったけど。
そんな日を生きる私にも祝福をくれるなんて、音楽は優しいね。